2023/03/31

民主集中制と出版の自由

  日本国憲法は、出版の自由について、次のように規定している。

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 本稿では、日本共産党が、民主集中制という組織原則で、この誰にも保障された出版の自由をどこまで制限できるのか?それを、曖昧ではなくて、いつどのように制限できるのかを明瞭に示す。もって、「志位委員長への手紙」を出した鈴木元氏に対する除名処分が《不法不当なまったく乱暴なやり方である》ことを論証する。記事の長さを考慮して、次に述べる除名理由の2と3に対する反論は、別の機会に行う。

鈴木元氏の除名理由

 日本共産党京都府委員会は、2023年3月17日付で「鈴木元氏の除名処分について」との一文を公表した。それによると、除名に問われた氏の言動は次の3つだ。

  1. 党に対する攻撃を、党の外から行なった。
  2. 党攻撃のための分派活動の一翼を担った。
  3. 党に多様な政治グループの容認を求めた。

 ごく普通の一般庶民の私だが、仮にも日本共産党の党員だとする。その私が、「同じ時期にブログを立ち上げた方が話題になりますよ」とのアドバイスに従って本ブログを始めたとする。そして、「提起された改革課題を継承する理由と意義」と「民主集中制試論 『発言の自由と行動の統一』について」という二つの記事をアップ。この私の行動は、鈴木氏が除名に問われた言動そのものである。私は、遠からず、我が家のポストに日本共産党からの除名通知を発見することになる。

 私の除名理由の一つは、党規約(第3条)を「『下級は上級に従う』を強いた民主集中制の悪しき伝統を継承している」という党攻撃を、党の外から行ったことである。二つは、「同じ時期にブログを立ち上げた方が話題になりますよ」とのアドバイスに従って、党攻撃を目的とした分派活動の一翼を担う誤りを犯したことだ。三つは、ブログの記事で「党内に一定の影響力を持つ『意見の集合体』の存在を認めよ」と分派の容認を求めたことだ。

 届いた、除名通知の末尾には、

「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」(第5条5項)という規定を踏みにじる重大な規律違反です。

と書かれている筈だ。

除名処分に対する一般的な見方・感想

  • 党に対して改革を進言するだけで、除名されるのか?
  • 党員が、助言を受けて行動すれば、除名されるのか?
  • 党員が、討議グループの容認を求めれば、即除名か?

 誰もが、鈴木元氏と私の除名処分に対して、このような疑問を抱くに違いない。この疑問は、まったく正しい。

 デイリー新潮は、3月20日付けで、鈴木氏除名について次のように報じている。

 YAHOO!ニュースに転載された毎日新聞記事のコメント欄に、一橋大学大学院社会学研究科教授の中北浩爾氏が、鈴木元氏の除名の報に《もうため息しか出ません》と投稿している。
 《綱領や規約の解釈権を党指導部が独占し、それに基づき処分を行う。党内民主主義が十分に機能していないことを示しています。》
 (デイリー新潮の3月20日付けの記事より)

 正に、今、その「もうため息しか出ない、なにか許しがたい事態」が起こったのだ。

除名通知のトリで大活躍の第5条2項の問題点

 そもそも論ではあるが、日本共産党の組織原則(発言の自由と行動の統一)に従えば、「決定について論議することも批判することも、どこでもどういう方法でも党員には許される」のである。明らかに、「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」と定めた規約第5条2項は、守るべき組織原則から逸脱した誤りである。


 もちろん、民主集中制の模式図が示すように「発言の自由と行動の統一」の組織原則は、選挙(PLAN方針の実践)期間中に党が掲げた公約と矛盾する発言を党員がすることも、公約を批判するパンフレットを配布する行為を許していない。しかし、公示日前と投票日後は、その限りではない。

 この間、除名通知のトリとして大活躍の党規約第5条2項は、レーニンが言ったように「発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定した党員に対する言論統制基準である」ことは明らかである。

私が、「党中央への手紙」を出版したら・・・

 ところで、「発言の自由と行動の統一」は、党員が決定と矛盾する主張を含む本を出版することを許すのだろうか?例えば、私が、次のような主張を含む「党中央への手紙」を出版したら、除名に相当する反党行為なのだろうか?

 日本共産党は、綱領で「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」と明記し、「自衛隊は憲法九条に違反する存在だから、その解消をめざす」という目標をはっきりかかげている。つまり、《憲法9条に基づく平和の外交戦略の成果としての》という条件付きならが《常備軍なき平和日本》を展望してる。

 この日本共産党の常備軍廃止論は、三つの点で大きな誤りを犯している。

 一つは、科学的ではないという誤り。今日、国家及び民族間の利益の対立は、先鋭化する一方だ。国家間の資源とエネルギー争奪戦は、化石燃料の枯渇と代替エネルギーへの転換の不均等性で当面は解決されないだろう。また、地球規模での温暖化の影響は、国家間に深刻な食糧争奪戦を引き起こすに違いない。このような国家及び民族間の利益の対立が、偶然を媒介として暴力的な解決に発展することは歴史が示している。その際、或る国が北方4島に軍隊を展開するなどの一触即発の状況が生まれることもありえる。だとすれば、民主連合政府の約束事だとしても、常備軍を廃止を謳うことは間違っている。

 二つは、矛盾の止揚に背を向けた誤り。憲法9条第2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と戦力の放棄を明記している。その一方で、日本は、世界の軍事力ランキングで5位の自衛隊という名の常備軍を保持している。糸も撚り合わせれば紐になる。紐も撚り合わせれば綱になる。糸でしかなかった警察予備隊は、その量的変化をもって、今や立派な陸海空軍に成長した。明らかに、憲法9条と自衛隊の存在は、矛盾している。矛盾の止揚が、「矛盾する要素を、発展的に統一すること」であるとすれば、それは必ずしも、自衛隊の存在をなくすことを意味しない。憲法9条と自衛隊の発展的な統一こそが、民主連合政府に課せられたテーマである。

 三つは、統一戦線結成を目指す上での政治的判断の誤り。民主連合政府の樹立を目指す統一戦線には、非武装中立路線の支持者だけではなく、私のような自衛中立路線を支持する人々も参集する。その場合、「急迫不正の主権侵害に際してどう対応するのか?」というテーマを巡って喧々諤々の論議が起こることも予想される。この時、日本共産党は、「憲法9条と自衛隊の発展的な統一」という見地に立っていることによって、かかる争論を首尾よく解決できる。しかし、非武装中立路線に固執していれば、「まあ、その時は・・・」と返答に窮することになる。その結果、現実的な政策を探求し始めた統一戦線にあって、そのけん引役という地位を失うことにもなりかねない。

 日本共産党は、この三つの誤りを認め、「民主連合政府は、憲法9条と自衛隊の発展的な統一を目指す」という路線への復帰を急ぐべきだ。

 私の「党中央への手紙」を出版するという行為は、「発言の自由と行動の統一」の組織原則に照らせば、完全に許されることであり、決して、除名処分に当たる行為ではない。また、仮に、出版後に、選挙などの特定の政治行動が展開されても、行動の統一を逸脱した行為として非難されることはない。

 「選挙期間中も本の販売を中止しなかった」などは、言いがかりに過ぎない。第一、それは出版社の専権事項で私がタッチできる事ではない。問題なのは、選挙期間中に選挙公約と矛盾する本を意図的に出版したかどうかなのである。出版後に行われた選挙で、本の記述と選挙公約に矛盾があっても、それは何ら問題になるものではない。選挙公約との矛盾を持ち出せば、党幹部が著した本のすべてが問題になり、幹部の何人かが除名対象者にならざるをえない。

 また、私が出した著書「党中央への手紙」は、決して党を攻撃した本でない。綱領路線と矛盾する発言が党攻撃だとすれば、1904年に不破哲三氏が自衛中立路線を否定したのも党に対する攻撃になる。「いや、不破氏には、路線を修正する権限がある」と言うのであれば、綱領路線の批判的な検討は、党首及び幹部会の専権事項だと言っているに等しい。しかし、それは、まったく間違っている。民主集中制が言う発言の自由は、党員が綱領路線の批判的な検討に基づく主張・批判を行うことも含めて完全に保障しているのだ。

 結論として、私が、「党中央への手紙」を出したことで除名される理由はないし、除名と言う処分はまったく乱暴なやり方である。鈴木元氏の除名も、また然りである。

 いざとなったら「いきなり外から・・・」と持ち出される除名の印籠と化した規約第5条2項の存在は、百害あって一利なしである。党員の自由な発言を封じる言論統制基準である規約第5条2項は、速やかに廃止さればければならない。

結び

 ともかく、「1、党に対する攻撃を、党の外から行なった」との一つ目の除名理由の破綻は、明らかになった。「2、党攻撃のための分派活動の一翼を担った」、「3、党に多様な政治グループの容認を求めた」-後二つの除名理由が、不法不当であるならば、鈴木元氏の除名は取り消されなければならない。どうする日本共産党!である。

=== 推敲と校正を継続中。本稿は、適宜に訂正されます。 ===

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2023/03/28

発言の自由と行動の統一

  2009年3月14日付け「しんぶん赤旗」によると、民主集中制の基準は、党規約(第3条)に明記されているとのこと。

  1. 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
  2. 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
  3. すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
  4. 党内に派閥・分派はつくらない。
  5. 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。

 鈴木元氏除名の主たる理由は、党規約(第3条)違反。果たして、除名の根拠となった同条項は正しいのだろうか?

 本稿では、日本共産党の党規約(第3条)が、民主集中制に誤った基準を導入していることを論証し、民主集中制の本質は《発言の自由と行動の統一》にあることを示す。もって、鈴木元氏の「争論と誤解されかねない提言」をキッカケとして出現した「なにか許しがたい事態」が、日本共産党にとって名誉となるように解決される道を探る。

「批判の自由と行動の統一」より

  1905年当時のレーニンならば、上記の党規約を次のように非難するであろう。

 「民主的な過程を経て決めたことは、みんなで実行する」ことが民主集中制である」-これは、一見もっともらしい言い分だが、よくよく考えたら実に奇妙で不可解な基準である。討議の際には、党員は、大会の決定に矛盾する発言をする権利があるが、それを実行する際には、個人的な意見を述べる完全な自由が与えられないとは?

 この基準の作成者は、党内民主主義の要である発言の自由と党の行動の統一との相互関係を全く誤っている。党綱領の諸原則の範囲内での発言は、討議だけではなく、行動においても、完全に自由でなければならない。

(「批判の自由と行動の統一」レーニン全集第10巻 大月書店 1955年) 

 以上は、レーニンの「批判の自由と行動の統一」から文脈も文言も借用した文である。

レーニンが挙げた一例

 素人の私にも、レーニンが「発言の自由と行動の統一」について熱弁をふるっていることは判る。しかし、党規約(第3条)が、どういう風に誤っているのかをストンと理解するには至らない。そこで、更に、レーニンが示した一例について見てみる。

 党規約(第3条)が、発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定したことは明らかである。 

 一例をとってみよう。大会は、国会選挙に参加することを決定した。選挙は、完全に特定の政治行動である。選挙の時には、選挙についての決定に対する批判は許されない。だが、選挙がまだ公示されていない時には、選挙に参加するという決定について論議することも批判することも、どこでも党員には許される。

 また、選挙が終わった瞬間から、党員は、選挙に参加するという決定について再び自由に発言することが許される。

 この例示によって、党規約(第3条)の誤りが、朧気ながら分かったような気がする。だが、「合点だ!」とまではいかない。そこで、もう少し、レーニンが言わんとしたことについての検討を進めてみる。

「発言の一律統制」を継承した党規約(第3条)





 党規約(第3条)が言う民主集中制とレーニンが主張した組織原則との図による比較を行うとこのようだ。上図が、党規約(第3条)が言う民主集中制のPDCAサイクルで、下図がレーニンが主張した組織原則のPDCAサイクルである。

 二つの図の比較から分かった驚くべきことは、党規約(第3条)は、大会決定を討議する際には、「党員が決定に矛盾する発言をする権利」を保障しているが、大会決定を実践する過程においては、「党員が個人的な意見を述べる完全な自由を全く与えていない」ということだ。

 裏返せば、党規約(第3条)は、大会決定を実践する全過程に対して自由に意見を述べ、それを批判できる権限は、唯一、党中央のみが持つと宣言しているに等しい。正に、党規約(第3条)は、党を、上意下達の組織として運営するために用意された基準でしかない。同基準は、未だに、党結成時に導入された民主集中制の悪しき伝統を継承していると言わざるをえない。

 レーニンが主張した組織原則のPDCAサイクルでは、大会決定を討議する際だけでなく、それを実践する計画(Plan)と評価(Check)と改善(Action)の3つのプロセスでも、党員は個人的な意見を自由に述べることができる。党員が個人の意見を封印して行動の統一を図るのは、実行(Do)のプロセスのみである。

 党規約(第3条)を否定したPDCAサイクルでは、党員は大会決定の実行者として鍛えられ、次期大会において自らが蓄積した改善の為の意見を主張する。これは、党が鍛えられ、かつ発展していく源泉である。レーニンが、「発言の自由と行動の統一」を重視した理由は、ここにある。

 ここまでの検討で、誰もが、「党規約(第3条)が、発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定したことは明らかである」とのレーニンの批判に納得し合点できた筈だ。

或る例え話

 例えば、或る会社で、年次の経営方針を決めたとしよう。それを、具体化するために開かれた会議では、社員の誰にも自由な発言が許される。そして、会議で決めた特定の社活動には、誰もが一致協力して取り組む。特定の社活動を反省する会議では、再び、社員の誰にも自由な発言が許される。例え、社の幹部にとって耳の痛い発言も含めて、社員は自由に発言することができる。これが、民主的で社員に開かれた会社である。

 一方、ワンマン社長が経営する会社の年次方針を具体化する会議に参加した社員は、自分の発言が年次方針と矛盾していないか?、年次方針を批判する内容となっていないか?の自己点検に追われることだろう。この会社の社則(第3条)には、「決定したことは、みんなでその実行にあたる。いついかなる時も、行動の統一を遵守することは、お客様にたいする社員としての責任である」と明記されている。つまり、社員に、(一年を通じて)年次の経営方針と矛盾した発言、それを批判する完全な自由を与えていないのだ。社員が自由に発言するのを躊躇するのは、当然のことである。

 昭和という時代には、多くの会社で、社員は、会議でも、特定の社活動でも、それを反省する会議でも、発言と行動の統一を求められたものだ。一社員が「いや、それは違う」と幹部に反抗すれば、「お前は、社方針を守らないのか?やる気のない奴だ!」と叱責されることもあった。いわゆる、今で言うパワハラだ。こうした会社では、社方針に忠実な社員だけが出世の階段を昇った。

 この或る例え話は、民主集中制の組織原則も、時代的な「発言の自由と行動の統一」の相互関係を反映して変わっていくことを教えている。もはや、ワンマン経営の時代は、過ぎ去ったのだ。

日本共産党の民主集中制論批判

 冒頭で紹介した、2009年3月14日付けの「しんぶん赤旗」では、「日本共産党の民主集中制とはどんなもの?」という質問に対して、次のように回答している。

 日本共産党は、党の最高機関である党大会を2年または3年の間に1回開きます。党大会の議案は支部総会、地区党会議、県党会議で討議され、その過程で、中央委員会は全国の党員から送られてきた意見を公表し、少数意見の表明の機会を保障しています。党大会から次の党大会までの間は、全党が中央委員会の方針と指導に団結して活動します。

 正に、語るに落ちた感がある。日本共産党は、質問に対する回答の中で「党大会から次の党大会までの間は、党員が、大会決定に対して自由に発言することも、自由に批判することも、自由に煽動することも許していないことを告白している。

 「党大会から次の党大会までの間は、全党が中央委員会の方針と指導(の下)に団結して活動する」ことを党員に求める思想は、明らかに十月革命後の「上級のすべての決定は下級にとって絶対的に拘束的である」(ウィキペディア 第18回大会「組織問題について」)を継承したものである。それは、日本共産党の結党時に守るべき原則として輸入される。この結党時の遺物は、今日の日本共産党から完全に追放されなければならない。

 付け加えておけば、大会決定を実践する全過程で、党員が自由に発言し批判することを禁止したなかで迎える党大会は、どんなに「少数意見を表明する機会を保障している」と弁解しても、本質的には執行部が用意した決議案への賛同を党員に押し付ける場になる。

 また、「大会決議案は各党組織で討議している」とも弁解している。しかし、それでも、前大会以降の実践についての反省を集約し反映させる権限を一手に握っている党中央に一般党員が物を申すのは難しい。「発言の自由と行動の統一」の基準に立ち戻らなければ、いずれ、各党組織での討議は、不平・不満のガス抜きの場であり、党中央が配布した決議案の単なる学習の場としてしか機能しなくなるだろう。

許しがたい事態の名誉となる解決とは?

 確かに、日本共産党は、発言の自由を狭く解釈した誤った基準を掲げ、党員の発言・批判・煽動を封じることで、長らく争論の発生を未然に防ぐことに成功してきた。しかし、この手のやり方は、いつかは、勇気ある党員によって、内に貯めこまれた党改革の想いの爆発を招くものだ。その爆発の一形態である、鈴木元氏の「争論と誤解されかねない提言」、「種々の疑惑を招きかねない提言」をキッカケとして「なにか許しがたい事態」が出現し、同氏が除名されるに至った。

 我々は、此度の争論と疑惑が引き起こした事態を、どのように解決するべきなのか?そのヒントを、レーニンの「批判の自由と行動の統一」に探る。

 発言の自由と行動の統一という原則の実践への適用は、これまたときとすると、争論と誤解をひきおこすだろう、だがほかならぬこの原則にもとづいてのみ、あらゆる争論とあらゆる疑惑が、党にとって名誉となるように解決されうるのである。だが党規約(第3条)は、なにか許しがたい事態をつくりだしている。
(「批判の自由と行動の統一」レーニン全集第10巻 大月書店 1955年) 

 誤りを怖れずに断言すれば、一斉地方選挙という特定の政治行動が終わった瞬間から、全ての党組織が、党規約(第3条)を討議し、それに対する自分の態度をはっきり表明することで、此度の争論とあらゆる疑惑は、日本共産党にとって名誉となるように解決されうる。

 レーニンが生きていたら、全ての党組織は、党規約(第3条)を討議をせよ!」と呼びかけるに違いない。と、本稿は、煽動的な一文で締めくくる。

付記:

  なお、レーニンが論文「批判の自由と行動の統一」で行った主張を、彼が情勢に応じて行った様々な発言を引用することで「限定的な主張」として否定する向きもある。が、そういう難癖は、ほとんどが為にする論である。また、レーニンが、民主集中制を提唱した張本人という歴史的事実も、完全に無視してよい。大事なことは、同論文から、あるべき組織原則のアイデアを引き出して、日本共産党の組織原則を民主化する武器とできるかどうかだ。本稿で提示した「民主集中制」の模式図が、民主化の武器になるかどうか?そこんところが、大事なのである。なぜなら、ここでは革命の前衛党が採用すべき組織原則としての民主集中制のあり方を探している訳ではないのだから・・・。

参照したサイト:

https://undou.net/blog/2023/freedom-to-criticise-and-unity-of-action/

【資料】V・I・レーニン「批判の自由と行動の統一」(1906年)


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2023/03/26

鈴木提言を継承する理由と意義

はじめに


 鈴木氏は、
『志位和夫委員長への手紙』(かもがわ出版)等の著作を出したことで日本共産党を除名された。が、それは、表向きの理由。実際は、《松竹氏除名との員数合わせ》でしかない。本サイトでは、員数合わせという裏の事情については問題にしない。日本共産党が氏を除名した大儀名分の是非を問題にする。なぜなら、氏の除名が党員の発言の自由を否定した不法不当なものであることを明らかにするには、党が掲げた大義名分が誤りであることを論証する必要があるからだ。

 鈴木氏除名の不当性を明らかにし、氏の名誉を回復する戦いは、日本共産党を改革する取り組みそのものである。氏の除名を正当化するあらゆる規約上の誤りと運用上の誤りは、出来る限り早く正されなければならない。なぜなら、改革の遅れは、党の衰退を加速させ、日本の反動化を促進するからだ。

 なお、本稿自体の目的は、鈴木元氏の想いと氏が提起した改革課題を継承する理由と意義を明らかにすることである。一読していただければ有難い。

改革提言が生まれた背景

 鈴木氏は、著書「ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える」で「時代遅れのマルクス主義を乗り越えよ」との論を展開したとされる。この問題の厳密な検証は、後々の課題だ。氏は、「ポスト資本主義」において資本主義的弊害の是正を目指す各階層のセンター(群の中心)として輝きを取り戻す日本共産党を思い描いていた感がある。そして、氏は、この青写真化を通じて、党改革に関するある想いを確信するに至ったようだ。私は、その延長線上に改革提言の書である「志位和夫委員長への手紙」が誕生したと認識している。

 氏は、追って出版した「志位和夫委員長への手紙」では、長らくタブーとされてきた日本共産党の不都合な真実を白日の下に晒した。これに対して、党の指導部は、著書の文言の一つひとつを恣意的に抜き出して悪意をもって脚色し、氏の著書に「日本共産党を否定した書」との烙印を押した。しかし、これは、完全に的外れで間違った評価である。ここら辺りは、氏の著書を実際に読むことで納得してもらえるだろう。論より証拠である。

 鈴木氏が提言に込めた党改革の想いを継承する理由の一つは、それが生まれた理由そのものにある。すなわち、《日本的構造改革路線と形容できる社会主義への道》と《日本共産党に残存するスターリン主義的な前衛党の残滓》との矛盾が、氏の想いを生み出したということだ。そして、この矛盾の止揚は、鈴木氏が提起した改革課題を実現し実践することで達成される。

ゴールはおんなじ

 党創立101年目を迎えた日本共産党は、今や、大きな変貌を果たした。(1)プロレタリア独裁と(2)社会主義革命による変革を否定したことは、党の今後を決定付けた。

 2003年、党は「市場経済を維持しつつ、資本主義的な古い質を減らし、共同社会的な新しい質を増やしていく漸次的進化の過程を経て《社会の相転移》を目指す」と宣言した。これによって、トップダウンによる社会主義建設は完全に否定され、ジョイント・マネージメントによる社会主義への道が拓かれた。

 社会主義を目指す取り組みは、未だスタート地点にすら立っていない。それが本格的に始まるのは、早くても200年後のこと。そこから、始まって《社会の相転移》が起きるのは、更に200年後、300年後のこと。とてつもなく遠い未来の話だ。日本共産党が目指しているのは、実に壮大な人類史的な挑戦である。

 鈴木氏の「ポスト資本主義」にける主張は、主に《社会の相転移》が起きる以前の漸次的進化の過程について運動論的な視点からアプローチした見解の一つである。幾つかの西欧の取組みにヒントを得るべきだとの主張から察すると、構造改革論に近い主張の一種とも言える。

 かって、車椅子の物理学者スティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士は、日本講演で次のような主旨のことを言った。

 山を500m登っても、辺りの景色は麓のそれと同じです。1000m地点まで登っても、それに大きな変化は起こりません。やっぱり、見るのは山地帯のそれです。しかし、1500mまで登りきると、景色は一変します。目の前に広がるのは、山地帯とはまったく異なる亜高山帯の植相です。これが、量から質への転化です。漸次的な進化による飛躍、すなわち一歩高いステージへの移行による相転移の出現です

 市場経済を通じて社会主義を目指す道は、ホーキング博士が言った《漸次的な進化による飛躍》を目指すに等しい。鈴木氏が言う方向性は、ただ単に、1500m地点を目指す一つのルート上の取組みにしか過ぎない。鈴木氏が好むと好まざるに関わらず、各種の構造改革的な改良の蓄積による相転移の結果として「搾取の自由」が制限された、国民が主人公となる一歩高い次元の社会へと進みだすステージが出現することは避けられない。(唯物弁証法が正しければ)結果として、行き着く先はおんなじなのである。

 日本共産党が、党として氏の著書を過度に否定するのは、言論の自由を否定すること通じる。また、「ゴールを目指す過程での様々な論の生成を否定しかねない」との危惧を世間に与えるという点でも得策ではない。

日本共産党の属性に求められる変化

 新しい社会主義への道は、日本共産党の属性(プロパティ)に変化することを求めている。鈴木氏の提言に込められた党改革の意思を継承する理由の二つは、氏が提言の中で《あるべき属性の変化について的確に示唆している》ことにある。

(1)時代にそぐわない民主集中制の否定。
(2)政策研究グループ活動の許可・容認。
(3)指導部を選挙で選ぶ条項の完全実施。
(4)代議員制のプロ化による弊害の克服。

などである。

ルール1:綱領の発展に寄与する探求を行う。(寄与)
ルール2:利害に基づく派閥活動は行わない。(原則)
ルール3:党と他グループの面目に配慮する。(配慮)

 上記のようなルールを遵守する限りでの、党員グループによる政策研究活動を許容することは時代の要請である。それは、当然に、意見・主張で結ばれた繋がりを生み出す。しかし、それはいわゆる《ディスカッショングループ》であって、利害で結びついた派閥活動は厳しく制限される。しかし、ルール2を拡大解釈して、党員の政策研究活動に過度の制約を求めたり、意見・主張及び活動スタイルを理由にグループの解散を迫ることは許されない。

 《党と他グループの面目に配慮する》は、《党と他グループに対する攻撃的な非難の禁止》と同義である。互いの面目を潰せば、争いに発展するのは不可避。ルール3は、党及び政策研究グループとの無駄な争いを回避する上で重要な約束事である。なお、同ルールは、党と他のグループに対する批判の自由を奪うものではない。その批判の厳しさは、ケースバイケースである。

 以上のような制約下での《意見の交換をもって認識を深める政策研究グループ活動》の容認もまた、時代の要請である。

 もちろん、政策研究グループの規模について「何人まで」とか、「活動期間は何ヶ月を限度とする」などの諸制約を設けるのは、非現実的であるし適当でもない。だとすれば、これらのグループが党内に一定の影響力を持つ「意見の集合体」に成長することは避けられない。

 勝手に党の諸原則に反した特定の政治行動を起こさない限りで、(党の綱領と政策を批判的に検討する・しないに関わらず)かかる集合体の形成もまた許可・容認されなければならない。これは、日本共産党が、漸次的進化を推進する各階層のセンター(群の中心)として成長・発展していく上での不可欠な改革である。

 これらの改革は、日本共産党をして、選挙によって指導部及び党首を選ぶ段階への前進をもたらす。

時代にそぐわない民主集中制の否定とは?

 時代にそぐわない民主集中制の否定とは?それは、必ずしも民主集中制という文言を規約から追放することではない。しかし、民主集中制の民主化を図る検討を反映して、その呼び名そのものの検討を行う可能性は否定しない。 

 それはさておき、当座の目的は、規約から非民主的な条項を追放し、民主的な条項を復活させたり、新たに付け加えることである。もって、民主集中制は、規約の民主的な改革によって《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》として蘇る。

 この民主集中制の民主化を通じて、日本共産党を戦う国民各階層の共同センター(群の中心)としての確かな地位を与えることが、本サイトの基本的なスタンスである。「革命のフロントから共同センターへ」が、本サイトが掲げるスローガンである。

 綱領や決定に対する発言の自由を認めないのは、明らかに(現時点で採用されている)民主集中制の非民主性の現れ、もしくは恣意的な運用のどちらかである。党綱領の諸原則の範囲内での発言は、討議だけではなく、行動においても、完全に自由でなければならない。もちろん、特定の政治行動における行動の統一は、当然のことである。

代議員制のプロ化による弊害の克服

 なお、鈴木氏は、代議員制のプロ化による弊害の実態を解明し、その克服の方向性について実に示唆に富んだ提言をしている。この提言を党攻撃云々と批判して退けることは、一層の代議員制に対する不信を増幅しかねない。そもそも、プロ化による弊害は、安定と秩序を求めた代議員制とは不可分の問題。日本共産党は、「過度に専従に依存した我が党に特有な代議員制の負の属性を否定せよ!」との氏の提言に真摯に耳を傾ける必要がある。

 かかる属性の変化を通じて、日本共産党は、画一性を排し、多様性を認め合い、違いに寛容な政党への変貌を完成させる。これは、日本共産党の綱領路線の要請である。また、時代の要請でもある。

党首公選について

 もちろん。《各指導部を選挙で選ぶ条項の完全実施》は、党員の直接選挙による党首選び(党首公選)を意味するものではない。

 全党員による直接選挙による党首選びなんて自民党ですら実施していない。国会議員票と党員票との間には、歴然とした扱いの差がある。党員票は、党所属国会議員と同数の票を各候補ごとにドント式で分配されているに過ぎない。仮に、12万人の党員が投票した場合、党員票の重みは議員票の400分の1。実態としては、国会議員による投票で決まっている。先進7ヵ国の中で、全党員による直接選挙のみで党首を選んでいる政党は皆無である。

>直接選挙による党首選びは、政敵打倒の常套手段!

 これは、「党首選びを利用した、独裁者によるクーデター的な党の乗っ取りを許さない」という意味で世界の常識である。仮に、党員参加型の党首公選を実施する場合にも、党員XXX人当たり1票で各都道府県に基礎票を割り当て、代議員である中央委員の票との合計票でもって選出する形が望ましい。それが、代議員制度と矛盾しない選出方法である。

 ともあれ、鈴木氏が提言において、全党員による直接選挙による党首選びを掲げたことによって党中央に提言全体を拒否する絶好の口実を与えた。実に、残念至極である。しかし、その提言の中で提起された幾つかの改革課題は、党首選びの民主的改革も含めて継承されなければならない。

 重ねて言えば、国民各階層との協力協同をもって漸次的進化を目指す新しい社会主義への道は、党にスターリン主義的な組織原則の否定を要求している。新しい道は、日本共産党をして「古い属性を脱ぎ捨てよ!」と要求している。

結び

 鈴木元氏は、著書「志位和夫委員長への手紙」の帯で「貴方はただちに辞任し、党首公選を行い、党の改革は新しい指導部に委ねて欲しい」と謳った。日本共産党は、ここにフォーカスを当てて、氏の著書に《造反の書》との烙印を押して除名した。このことは、世間に「党首を批判する本の出版は、内容の如何を問わず許さない」-実に高圧的な姿勢との印象を与えた。「ならぬ堪忍するが堪忍」という懐の深い対応であって欲しかった。

 氏の著書が《発言の自由と行動の統一》の組織原則に則った《提言の書》であることの論証は、次回以降のテーマだ。本稿では、「日本共産党を時代が要請する近代政党に変えるべし」との鈴木氏の提言に耳を傾けることの理由と意義について語れていればOKだ。日本共産党の若い党員諸氏には、未来を信じ未来に生きる変革者として、鈴木元氏が提起した改革課題を継承し実現して欲しい。そのことを願って、結びとする。


=== 推敲と校正を継続中。本稿は、適宜に訂正されます。 ===

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