2023/03/28

発言の自由と行動の統一

  2009年3月14日付け「しんぶん赤旗」によると、民主集中制の基準は、党規約(第3条)に明記されているとのこと。

  1. 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
  2. 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
  3. すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
  4. 党内に派閥・分派はつくらない。
  5. 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。

 鈴木元氏除名の主たる理由は、党規約(第3条)違反。果たして、除名の根拠となった同条項は正しいのだろうか?

 本稿では、日本共産党の党規約(第3条)が、民主集中制に誤った基準を導入していることを論証し、民主集中制の本質は《発言の自由と行動の統一》にあることを示す。もって、鈴木元氏の「争論と誤解されかねない提言」をキッカケとして出現した「なにか許しがたい事態」が、日本共産党にとって名誉となるように解決される道を探る。

「批判の自由と行動の統一」より

  1905年当時のレーニンならば、上記の党規約を次のように非難するであろう。

 「民主的な過程を経て決めたことは、みんなで実行する」ことが民主集中制である」-これは、一見もっともらしい言い分だが、よくよく考えたら実に奇妙で不可解な基準である。討議の際には、党員は、大会の決定に矛盾する発言をする権利があるが、それを実行する際には、個人的な意見を述べる完全な自由が与えられないとは?

 この基準の作成者は、党内民主主義の要である発言の自由と党の行動の統一との相互関係を全く誤っている。党綱領の諸原則の範囲内での発言は、討議だけではなく、行動においても、完全に自由でなければならない。

(「批判の自由と行動の統一」レーニン全集第10巻 大月書店 1955年) 

 以上は、レーニンの「批判の自由と行動の統一」から文脈も文言も借用した文である。

レーニンが挙げた一例

 素人の私にも、レーニンが「発言の自由と行動の統一」について熱弁をふるっていることは判る。しかし、党規約(第3条)が、どういう風に誤っているのかをストンと理解するには至らない。そこで、更に、レーニンが示した一例について見てみる。

 党規約(第3条)が、発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定したことは明らかである。 

 一例をとってみよう。大会は、国会選挙に参加することを決定した。選挙は、完全に特定の政治行動である。選挙の時には、選挙についての決定に対する批判は許されない。だが、選挙がまだ公示されていない時には、選挙に参加するという決定について論議することも批判することも、どこでも党員には許される。

 また、選挙が終わった瞬間から、党員は、選挙に参加するという決定について再び自由に発言することが許される。

 この例示によって、党規約(第3条)の誤りが、朧気ながら分かったような気がする。だが、「合点だ!」とまではいかない。そこで、もう少し、レーニンが言わんとしたことについての検討を進めてみる。

「発言の一律統制」を継承した党規約(第3条)





 党規約(第3条)が言う民主集中制とレーニンが主張した組織原則との図による比較を行うとこのようだ。上図が、党規約(第3条)が言う民主集中制のPDCAサイクルで、下図がレーニンが主張した組織原則のPDCAサイクルである。

 二つの図の比較から分かった驚くべきことは、党規約(第3条)は、大会決定を討議する際には、「党員が決定に矛盾する発言をする権利」を保障しているが、大会決定を実践する過程においては、「党員が個人的な意見を述べる完全な自由を全く与えていない」ということだ。

 裏返せば、党規約(第3条)は、大会決定を実践する全過程に対して自由に意見を述べ、それを批判できる権限は、唯一、党中央のみが持つと宣言しているに等しい。正に、党規約(第3条)は、党を、上意下達の組織として運営するために用意された基準でしかない。同基準は、未だに、党結成時に導入された民主集中制の悪しき伝統を継承していると言わざるをえない。

 レーニンが主張した組織原則のPDCAサイクルでは、大会決定を討議する際だけでなく、それを実践する計画(Plan)と評価(Check)と改善(Action)の3つのプロセスでも、党員は個人的な意見を自由に述べることができる。党員が個人の意見を封印して行動の統一を図るのは、実行(Do)のプロセスのみである。

 党規約(第3条)を否定したPDCAサイクルでは、党員は大会決定の実行者として鍛えられ、次期大会において自らが蓄積した改善の為の意見を主張する。これは、党が鍛えられ、かつ発展していく源泉である。レーニンが、「発言の自由と行動の統一」を重視した理由は、ここにある。

 ここまでの検討で、誰もが、「党規約(第3条)が、発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定したことは明らかである」とのレーニンの批判に納得し合点できた筈だ。

或る例え話

 例えば、或る会社で、年次の経営方針を決めたとしよう。それを、具体化するために開かれた会議では、社員の誰にも自由な発言が許される。そして、会議で決めた特定の社活動には、誰もが一致協力して取り組む。特定の社活動を反省する会議では、再び、社員の誰にも自由な発言が許される。例え、社の幹部にとって耳の痛い発言も含めて、社員は自由に発言することができる。これが、民主的で社員に開かれた会社である。

 一方、ワンマン社長が経営する会社の年次方針を具体化する会議に参加した社員は、自分の発言が年次方針と矛盾していないか?、年次方針を批判する内容となっていないか?の自己点検に追われることだろう。この会社の社則(第3条)には、「決定したことは、みんなでその実行にあたる。いついかなる時も、行動の統一を遵守することは、お客様にたいする社員としての責任である」と明記されている。つまり、社員に、(一年を通じて)年次の経営方針と矛盾した発言、それを批判する完全な自由を与えていないのだ。社員が自由に発言するのを躊躇するのは、当然のことである。

 昭和という時代には、多くの会社で、社員は、会議でも、特定の社活動でも、それを反省する会議でも、発言と行動の統一を求められたものだ。一社員が「いや、それは違う」と幹部に反抗すれば、「お前は、社方針を守らないのか?やる気のない奴だ!」と叱責されることもあった。いわゆる、今で言うパワハラだ。こうした会社では、社方針に忠実な社員だけが出世の階段を昇った。

 この或る例え話は、民主集中制の組織原則も、時代的な「発言の自由と行動の統一」の相互関係を反映して変わっていくことを教えている。もはや、ワンマン経営の時代は、過ぎ去ったのだ。

日本共産党の民主集中制論批判

 冒頭で紹介した、2009年3月14日付けの「しんぶん赤旗」では、「日本共産党の民主集中制とはどんなもの?」という質問に対して、次のように回答している。

 日本共産党は、党の最高機関である党大会を2年または3年の間に1回開きます。党大会の議案は支部総会、地区党会議、県党会議で討議され、その過程で、中央委員会は全国の党員から送られてきた意見を公表し、少数意見の表明の機会を保障しています。党大会から次の党大会までの間は、全党が中央委員会の方針と指導に団結して活動します。

 正に、語るに落ちた感がある。日本共産党は、質問に対する回答の中で「党大会から次の党大会までの間は、党員が、大会決定に対して自由に発言することも、自由に批判することも、自由に煽動することも許していないことを告白している。

 「党大会から次の党大会までの間は、全党が中央委員会の方針と指導(の下)に団結して活動する」ことを党員に求める思想は、明らかに十月革命後の「上級のすべての決定は下級にとって絶対的に拘束的である」(ウィキペディア 第18回大会「組織問題について」)を継承したものである。それは、日本共産党の結党時に守るべき原則として輸入される。この結党時の遺物は、今日の日本共産党から完全に追放されなければならない。

 付け加えておけば、大会決定を実践する全過程で、党員が自由に発言し批判することを禁止したなかで迎える党大会は、どんなに「少数意見を表明する機会を保障している」と弁解しても、本質的には執行部が用意した決議案への賛同を党員に押し付ける場になる。

 また、「大会決議案は各党組織で討議している」とも弁解している。しかし、それでも、前大会以降の実践についての反省を集約し反映させる権限を一手に握っている党中央に一般党員が物を申すのは難しい。「発言の自由と行動の統一」の基準に立ち戻らなければ、いずれ、各党組織での討議は、不平・不満のガス抜きの場であり、党中央が配布した決議案の単なる学習の場としてしか機能しなくなるだろう。

許しがたい事態の名誉となる解決とは?

 確かに、日本共産党は、発言の自由を狭く解釈した誤った基準を掲げ、党員の発言・批判・煽動を封じることで、長らく争論の発生を未然に防ぐことに成功してきた。しかし、この手のやり方は、いつかは、勇気ある党員によって、内に貯めこまれた党改革の想いの爆発を招くものだ。その爆発の一形態である、鈴木元氏の「争論と誤解されかねない提言」、「種々の疑惑を招きかねない提言」をキッカケとして「なにか許しがたい事態」が出現し、同氏が除名されるに至った。

 我々は、此度の争論と疑惑が引き起こした事態を、どのように解決するべきなのか?そのヒントを、レーニンの「批判の自由と行動の統一」に探る。

 発言の自由と行動の統一という原則の実践への適用は、これまたときとすると、争論と誤解をひきおこすだろう、だがほかならぬこの原則にもとづいてのみ、あらゆる争論とあらゆる疑惑が、党にとって名誉となるように解決されうるのである。だが党規約(第3条)は、なにか許しがたい事態をつくりだしている。
(「批判の自由と行動の統一」レーニン全集第10巻 大月書店 1955年) 

 誤りを怖れずに断言すれば、一斉地方選挙という特定の政治行動が終わった瞬間から、全ての党組織が、党規約(第3条)を討議し、それに対する自分の態度をはっきり表明することで、此度の争論とあらゆる疑惑は、日本共産党にとって名誉となるように解決されうる。

 レーニンが生きていたら、全ての党組織は、党規約(第3条)を討議をせよ!」と呼びかけるに違いない。と、本稿は、煽動的な一文で締めくくる。

付記:

  なお、レーニンが論文「批判の自由と行動の統一」で行った主張を、彼が情勢に応じて行った様々な発言を引用することで「限定的な主張」として否定する向きもある。が、そういう難癖は、ほとんどが為にする論である。また、レーニンが、民主集中制を提唱した張本人という歴史的事実も、完全に無視してよい。大事なことは、同論文から、あるべき組織原則のアイデアを引き出して、日本共産党の組織原則を民主化する武器とできるかどうかだ。本稿で提示した「民主集中制」の模式図が、民主化の武器になるかどうか?そこんところが、大事なのである。なぜなら、ここでは革命の前衛党が採用すべき組織原則としての民主集中制のあり方を探している訳ではないのだから・・・。

参照したサイト:

https://undou.net/blog/2023/freedom-to-criticise-and-unity-of-action/

【資料】V・I・レーニン「批判の自由と行動の統一」(1906年)


=== 推敲と校正を継続中。本稿は、適宜に訂正されます。 ===

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