2023/04/10

「ポスト資本主義」について

はじめに

 鈴木元氏は、2022年4月に「ソ連の崩壊、中国の資本主義導入、共産主義運動の低迷という現実をふまえ、マルクス主義の理論を根底から問い直した問題作」というキャッチコピーを持つ著書「ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える」を出版した。

 日本共産党にあって、(近年に限っては)マルクスの幾多の著作を読み下して社会主義への道を探究する作業を担ってきたのは不破哲三氏のみと言い切ってよい。当然に、マルクスを乗り越えるとは、不破哲三氏を乗り越えると同義。そういう事情もあって、鈴木氏は、「不破哲三流の未来社会論・共産主義を根本目標から外すべきところに来ています。・・・資本主義を乗り越える社会を導く方向として、不破流のマルクス解釈だけではなく多様な変革の理論があり得る」と主張。この読者の意識を氏の論に引き付ける仕掛けが、党中央の逆鱗に触れて、鈴木氏が除名される一因にもなった。

 鈴木氏が「不破哲三流の」とか「不破流の」という挑発的な表現を捨てて「未来社会論・共産主義に関する従来の解釈に拘ることなく・・・」、また「共産主義に対する従来の解釈を一旦横において考えることも・・・」などとマイルドに書いていたら、まったく避けられた事態である。

「マルクスを乗り越える」に関する私的な考察

 ところで、鈴木氏が言うように、日本共産党の未来社会論を目標から外せるのだろうか?それは、100%無理な相談である。党は、目指している目標を綱領に僅か12文字で宣言している。この「搾取も抑圧もない共同社会」という目標は、絶対に外せない。外せば、日本共産党が日本共産党ではなくなる。

 ところで、鈴木氏は、何をもってマルクスを乗り越えると言うのか?ま、まさか、「《生産の社会的性格と取得の私的・資本主義的形態の止揚》と言う資本主義の基本矛盾を正すという目標を捨てろ!」と言うのだろうか?だとしたら、それはとんでもない方向違いである。それじゃー、ほんとうにマルクスを跳び越えて何処かへ行ってしまう。

 ところで、「ポスト資本主義」をよく読めば、鈴木氏の「マルクスを乗り越える」は、そういう意味ではない。単に、(不破氏の生産手段の社会化他の解釈に異を唱えることで)170年前のマルクスの諸文献の解釈から一旦離れて、ポスト資本主義論を探査すべしとするアンチ不破理論の色合いが濃い主張の一つのようだ。鈴木氏は、最終的には「文献解釈から導き出された方針を教条化することなく、自由で平等な共同社会の実現という一致点でポスト資本主義社会を目指そうではないか」と呼びかける。

 かなり乱暴な私流の解釈だが、このように読むこともできる。結局、「マルクスを乗り越える」では、マルクスの文献解釈に軸足をおく傾向の批判はあれど、氏独自の改革理論は完全には姿を現してはいない。「マルクスを乗り越える」は、むしろ「マルクスから一歩後退」に終わっている感さえある。

 それはさておき、不破哲三氏らが追及してきた改革路線は、《日本的構造改革路線を軸とした未来社会論》である。「当面は、資本主義の矛盾を解決する取組みを通じて自由で平等な共同社会を目指そう」と主張する鈴木氏と不破氏との間に、(当面の問題では)決定的な差異は見当たらない。共に、資本主義的な古い質を減らし、共同社会的な新しい質を増やすという漸次的な進化を目指す」という点では、まったく軌を一にしたものである。

 かって、車椅子の物理学者スティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士は、日本講演で次のような主旨のことを言った。

  山を500m登っても、辺りの景色は麓のそれと同じです。1000m地点まで登っても、それに大きな変化は起こりません。やっぱり、見るのは山地帯のそれです。しかし、1500mまで登りきると、状況は一変します。目の前に広がるのは、亜高山帯の景色です。これが、量から質への転化です。漸次的な進化による飛躍、すなわち一歩高いステージへの移行による相転移の出現です。

 市場経済を通じて社会主義を目指す日本的構造改革は、ホーキング博士が言った《漸次的な進化による飛躍》を目指すに等しい。ならば、共同社会的な新しい質の蓄積による相転移の結果として、共同社会の建設へと進みだすステージが出現することは不可避である。

 誤りを怖れずに断言すれば、鈴木氏の「ポスト資本主義」における「マルクスを乗り越える」試みは失敗に終わっている。なぜなら、漸次的進化が量から質への転化によって社会全体の相転移をもたらすという弁証法こそマルクス主義の肝である。マルクスを乗り越えるとは、漸次的進化に関する諸問題でマルクスを現代に蘇らせてこそ達成される。特に、社会全体の相転移がもたらす可能性から目を逸らすことは、マルクスを乗り越えるのではなくて否定することを意味する。と、私は思う。

24世紀に確定する評価を巡っての対立は愚である

 そして、ここからが大事なことだが、日本共産党の未来社会論が正しいかどうかが事実で証明されるのは、早くても300年後ということだ。

 (市場経済を通じて社会主義を目指す変革は)、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程です。人類史の新しい未来をひらく歩みですから、青写真はありません。国民が英知をもって挑戦する創造的な開拓の過程となるでしょう。(日本共産党)

 市場経済を通じて社会主義を目指す変革が始まるのは、早くても200年後の23世紀になる。それまでは、あくまでも資本主義の枠内での改革がテーマである。

民主主義革命・・・異常な対米従属と
↓        大企業・財界の横暴な支配の打破
民主連合政府の樹立
民主連合政府・・・民主主義的変革の実行
民主連合政府・・・資本主義の基本矛盾の止揚
社会主義・共産主義の社会

 当面する異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破する民主主義革命が成功して民主連合政府の樹立されるのは、どんなに早くても100年後の22世紀。日本共産党の支持率が3%前後に低迷している現実は、当面する民主主義革命が遠い彼方にあることを示している。たとえ首尾よく民主連合政府が樹立されても、国民大多数の支持を得て次に進む盤石の基盤を整える迄には、相当の年月を要するだろう。民主連合政権が、様々な民主主義的な変革を達成して、資本主義社会を乗り越える取組みに着手するのは、更に100年後の23世紀になるだろう。

 資源に乏しい日本の現実を見れば、国民の欲求と生産力との乖離を解消するのは、至難の業である。国民の間に共同社会の規範が定着するのは、更に難しいテーマである。ということは、社会主義・共産主義の社会なんてのは、更に数世紀先の30世紀になるかも知れない。

 当然に、23世紀の取組みにおいては、マルクスや不破哲三氏が述べた一言一句が頼りにされることはない。23世紀においては、200年に及ぶ実践に裏打ちされた幾多の変革理論が集大成された形で応用・実践されているに違いない。それらの変革理論の幾つかは、24世紀には《これが、ポスト資本主義の時代を築く取組みを牽引している理論です》と教科書に載るかも知れない。はっきり言って、西暦2400年に生きる未来人でなければ、資本主義を乗り越える確かな理論は示せない。もちろん、学術的には不可知論を排して《あるべき未来社会への道筋を探求する》ことは、未来を拓く上では必要不可欠なことであるが・・・。

 などなどと考えると、当面する諸課題での行動の統一及び民主主義革命を目指す点で一致している鈴木元氏と不破哲三氏に代表される日本共産党が、マルクスを挟んで、24世紀に評価が確定する論を巡って激しく対立するのは愚でしかない。それも、(当面の問題では)軌を一にした論を掲げて激しく対立するのは愚でしかない。同時に、運動論の色彩が強い「ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える」を(一つの試論と断った上で)出した鈴木元氏を気色ばんで除名するのは、実に大人げない。「不破哲三流の」とか「不破流の」という挑発的な表現については、「ならぬ堪忍するが堪忍」もあったのではないか?面目を潰されたとしての除名は、日本共産党にとって不名誉な事件として記憶される対応である。

結び

 今や、プロレタリア独裁は、レーニンによるマルクスの曲解として否定された。そして、宮本顕治氏が「日本革命の展望」で夢見た《民主主義革命を連続的に社会主義革命へと発展させる》二段階連続革命論も否定された。目の前に提案されているのは、トップダウン型の社会主義建設ではなくて社会相転移型の社会主義への道である。

 もはや、(ここ200年に限定すれば)構造改革路線と日本共産党の革命路線との違いを見出すのは難しい。そこにあるのは、「日本的構造改革路線は必ずや社会全般の相転移をもたらす」という信念のみである。この信念が全党的に薄れた時、日本共産党は日本共同党へと改名されるかも知れない。24世紀を迎えても、結党500周年という大会が日本のどこかで開催されていればと思う昨今である。


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=== 推敲と校正を継続中。本稿は、適宜に訂正されます ===

2023/04/12 「ポスト資本主義」が試論であること強調する記述に訂正
2023/04/18 「ポスト資本主義」がマルクスを否定した謬論であることを示唆

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