2023/04/02

民主統一制への脱皮を!

はじめに

 結論を先に述べれば、本稿では、遺伝子操作による民主集中制から民主統一制への脱皮を提言する。

 ウィキペディアによれば、「民主集中制(democratic centralism)とは、民主主義的中央集権主義の略」とのこと。一方、日本共産党が組織原則として採用してる民主集中制は、(本来は)中央集権主義を排し、党員に発言の自由を完全に保障しつつ、必要に応じて規律ある行動を求めるものである。それは、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》として次のように規定される。

 党員は、大会決定を討議する時も、決定の実行方針を決める時にも、自由に発言することができる。しかし、決定の実行方針を実践する特定の政治行動プロセスでは、すべての党員は、自説への拘りを捨てて《行動の統一》の旗の下にみんなで決めた方針の実現に最大限尽力しなければならない。また、実践に関する総括及び実行方針の見直しを行う時は、党員には、再び自由に発言することで、更なる方針の発展に寄与することが期待される。発言の自由とは、政策討論集会やSNS及び出版などによって意見を公開する自由を含む。

 素直に考えれば、このあるべき組織原則に民主主義的中央集権主義の略語を採用するのは、ちょっと違うような気がする。

本サイトの基本的スタンス

 私は、冒頭の記事(鈴木元氏の想いと改革を継承する理由と意義)で次のように述べている。

 時代にそぐわない民主集中制の否定とは?それは、必ずしも民主集中制という文言を規約から追放することではない。しかし、民主集中制の民主化を図る検討を反映して、その呼び名そのものの検討を行う可能性は否定しない。 

 それはさておき、当座の目的は、規約から非民主的な条項を追放し、民主的な条項を復活させたり、新たに付け加えることである。もって、民主集中制は、規約の民主的な改革によって《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》として蘇る。

 この民主集中制の民主化を通じて、日本共産党を国民各階層のセンター(群の中心)としての確かな地位を与えることが、本サイトの基本的なスタンスである。「フロントからセンターへ」が、本サイトが掲げるスローガンである。

 そもそも論であるが、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》を民主集中制と呼ぶのは、果たして妥当なのであろうか?私が、抱いた違和感の正体は、一体、何なのだろうか?

民主集中制から民主統一制への遺伝子操作

 ウィキペディアによれば、「1905年12月に開かれたボリシェヴィキの協議会で採択された決議『党の再組織について』もほぼ同じ内容の民主主義的中央集権制を『争いの余地なきもの』と認めた。」とのこと。その後、レーニンは、メンシェヴィキ主流派と対立するに至って、論文「批判の自由と行動の統一」を発表。その中で、ロシア社会民主労働党中央委員会が示した以下の通達を激しく批判・非難。その中で、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》を提示する。

    1. 党の新聞雑誌および党の集会では、自分の個人的な意見を述べ、自分の独自の見解を擁護する完全な自由が全党員にあたえられなければならない。
    2. 大衆的な政治集会では、党員は、大会の諸決定に反する煽動を行ってはならない。
    3. 党員はだれも、そのような集会では、大会の決定に矛盾する行動をよびかけたり、大会の決定と一致しない決議を提案したりしてはならない。

 レーニンが示した組織原則と上記通達とは、双方に相いれない関係にある。その詳細については、前敲「民主集中制試論 『発言の自由と行動の統一』について」で触れているので、ここでは割愛する。ともあれ、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》は、「批判の自由と行動の統一」の考え方を踏襲したものである。

 1920年に開かれた(レーニンが設立したコミンテルンの)第二回大会は「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」を採択し、その中で「民主主義的中央集権制の基礎的原則は、党の上級団体が下級団体によって選挙され、党の上級団体の指令一切が絶対的に、かつ必然的に下級団体を拘束し、大会と大会との間の期間、一切の指導的な党の同志が一般にかつ無条件にその権威を認める、強い党の中心が存在すべきことである」と規定した。(ウィキペディア)

 この「軍隊的な上意下達に基づいた党規律を民主主義的要素よりも優先・強調した」(ウィキペディア)民主集中制が、先頃まで日本共産党の揺ぎなき組織原則であったことは周知の事実である。正に、レーニンが確立しスターリンが継承した民主集中制とレーニンが1905年に主張した《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》は、水と油の関係にあるのも頷ける。

 改めて、民主主義的中央集権制(民主集中制)と《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》が生まれた経緯を考えると、(生みの親は、誰かは横に置いて)到底に、双方が同じ遺伝子を持っているとは思えない。だとすれば、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》にどんな呼称を与えればよいのだろうか?

 ここでも素直に考えれば、《発言の自由と行動の統一を核とした組織原則》には《民主統一制》という呼び名を与えるのが相応しい。これで、(呼称においても)民主集中制が持つ中央集権主義の遺伝子が《発言の自由と行動の統一》の遺伝子と置換される。この実体と呼び名、双方の遺伝子操作によって、《民主集中制》は《民主統一制》として生まれ変わる。

「集中」を拠り所とした付け足しの数々

 ところで、なぜ、民主集中制から民主統一制への衣替えを提言しているのか?それは、民主集中制の出自を呼称の上でも否定する必要性を強く感じているからである。なぜなら、「集中」の文言を絶対的な拠り所として、民主集中制に中央集権主義的な属性を付け足す動きが絶えないからだ。最近では、集権集中主義の導入がそうである。先のロシア社会民主労働党中央委員会の通達を念頭に、読み進めてもらえればありがたい。

 日本共産党第22回大会「党規約改定案についての中央委員会の報告」は、次のように言っている。

 (民主集中制の)「民主」というのは党内民主主義をあらわします。「集中」というのは統一した党の力を集めることをさします。これはどちらも近代的な統一政党として必要なことであります。

 残念ながら、報告者は、《党員を党の指導の下に集めるが民主集中制だ》という昔ながらの集権集中主義を力説しているに過ぎない。その考えは、次の規約3条1項と2項として具現化している。

  1. 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
  2. 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。

 この規約3条が、党員の発言の自由を不正確に余りにも狭く規定し、行動の統一を不正確に余りにも広く規定していることは、「民主集中制試論『発言の自由と行動の統一』について」で見た通りである。


 報告者の特異な民主集中制論は、第5条5項に密かに党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」との文言を埋め込むことで、鉄壁の集権集中主義として完成していく。

 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。

 この党員の自由な発言を封じる言論統制基準である規約第5条5項は、「言論の自由と行動の統一を核とした組織原則」(民主統一制)を跡かたなくぶっ壊すもので、日本共産党の極めて統率的な集権集中主義の肝である。

集権集中主義を振りかざすのは、公党としては失格

 さて、この集権集中主義の正当性の論拠付けの代表格は、党規約3条2項で示されている「(すべての党員が、すべてにおいて言動の一致を図る)行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である」という公党責任論である。さらに、党規約3条は、党員同志が支部の垣根を越えて何某かのやり取りすることを分派行動として禁じることで、スターリン流の一枚岩主義を想起させる集権集中主義への批判が表に出ることを防いでいる。実に、巧みな仕掛けである。

 国民に対する責任論を振りかざすことで、「なら、仕方ないか!」と党員に自由な発言をすることを諦めさせるのは、決して容認できない。それは、党員の言動を支配しようとする専制的な集権集中主義でしかない。時代遅れになった昔ながらの集権集中主義を振りかざすことは、国民に対する責務を果たす公党としては失格と断じざるをえない。

結び

 「集中」の文言を絶対的な拠り所として、民主集中制に中央集権主義の属性を付け足す動きを絶つために、民主集中制から民主統一制への衣替えが必要なのである。それをもって、組織原則から中央集権主義の遺伝子の追放を完成させるべきだ。この衣替えを通じて、名は体を表すが如く、日本共産党は、民主的ながらも戦うべき時は統一して事に当たる国民に責任を負う公党として蘇るだろう。

=== 推敲と校正を継続中。本稿は、適宜に訂正されます。 ===

2023/04/04 ロシア社会民主労働党中央委員会の通達を追加
2023/04/04 民主集中制⇒レーニンが確立しスターリンが継承した民主集中制
2023/04/05 集権的集中主義⇒集権集中主義
2023/04/06 「集中」を根拠とした付け足しを不破哲三氏の個人責任に帰す表現を修正

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